昭和46年03月30日 朝の御理解



 御神誡  一、真の道の心得 「物毎に時節を待たず苦をすること。」

 全ての事に、時節チャンスと云うものがあります。チャンスを逃さないようにしなきゃなりません。それを私共が分かりません為に、様々に難儀を致します。かえって焦ったり急いだり致しまして、却ってそれが難儀な元になったり致します。「物毎に時節を待たず苦をすること」神様にお願いをしてあるのでございますから、神様がおかげは下さる。そのおかげを下さる時節を待たせて貰うと言う事は、おかげを下さる時に受け漏らさないように、受け物をしっかり作っておこうと云う気になれば良いのです。
 昨日は、久留米の野口つぁんのところの謝恩祭が、毎年三月二十九日はあちらの謝恩祭の日になっております。まあいつもの事でございますけれども、実に行き届いたお祭りでした。だんだん毎年まいとし、家族でお祭りを頂き終わった後に、必ず反省会をなさるそうです。そこで、あそこが不行届きであった、ここがいけなかったと云うところを、毎年改めて行かれる。
 だからもういい加減、まあ云うならば、完璧なと思われるくらいなお祭りが仕えられようと思うのに、それでもやっぱりお祭りを仕えてみると、また手落ちがありましたり、粗漏があったりして、やっぱりそのことですと言うて、昨日云うて居られましたが、ほんとにやはり、その位な取り組み方をしとらなければ、又、あれだけ行き届いたことも出来まいと思うのでございますがね。
 もう年に一回のお祭りですから、縁に付いて居られる娘さん達がみんな帰って来ます。御親戚に熊本、小倉、壱岐対馬の壱岐ですね。壱岐にも娘さんが嫁入っておられますから、もう親子三人で何日前からか見えておられます。いわゆるその年に一回の謝恩祭を親戚の方達までが、ちゃっとその待っておられる。それでみんな御参拝になっておられます。ところが久留米市内にお嫁に行っとられる娘さんがあります。
 それも目と鼻の先の瀬の下です。庄島と瀬の下で兄弟達も皆集まる、叔父さん叔母さん達もみんな、ご参拝になる。あちらとしても、そのほんとにお参りしたいだろうと思う。ところが毎年お参り出来ない。今年は、わざわざ野口つぁんがあちらへ行かれて、あちらのお姑(かあ)さんに相談に行かれた。どうぞお参りさして下さいという訳です。で、まぁ、させて下さる事に話は決まったけれども、事実は見えてなかった。
 大変忙しい家でもありますけれども、まぁ何とはなしに信心が違うと云うか、あんまり、と云うてほんなら、その娘さんがあちらで、大変難儀苦労して居られるかと云うとそうでもない。まぁ野口つぁんとしては、それこそ壱岐辺りからまでも、海を渡ってから毎年これは必ず里の謝恩祭と云えば、みんな帰って来る。遠方におられる、熊本の叔父さん達までが、こりゃ絶対、わざわざその為にお参拝になられるのに。
 目と鼻の先のおる娘が帰って来ない、お参りが出来ないと云うのですから、まぁ親として穏やかでない訳ですね。 私はそういう時ですね、例えば野口つぁんが、そこでまあ向こうの親達にでもです。どういう訳で参らせられないか。目と鼻の先なのに、例えばお祭りに玉串を上げるだけでも良いから参拝させてくれと言うて、あれ程お願いしてあるのにですどうしてかと、と云う様なことになりましたらね。
 私共は何時もそういう事が有るんです。こういう時じゃないでしょうかね。物毎に時節を待たず苦をすること。こりゃ何か神様の深い深い御神意あってのことであろうと。まあ泰子さんと云われますが、とにかく泰子さん一心にお縋りしよんなさい、一番傍に嫁入っとるあんたが、まぁ用がありゃ何時でも里に帰って来れる。特にお祭りと云う時には、夫婦揃うてお参りが出来れる時節もあろうけれども、まだ時節が来んのだと。
 その時節の来るまで、しっかり信心させて頂きながら待たせて頂かなければならんと云う生き方でいきゃ、もう絶対のおかげになるだろうと思いますね。もうあそこは、金光様の信心を好かっしゃれんけん駄目と云う風に、私は諦めてしまったりその為にあんたんところの親ばっかりは、分からん親御であると云うて、腹を立てたり言うたりしておったんでは、それがおかげになるおかげもおかげにならん。
 いわば流産に終わってしまう様なことになる。これが例えば、妊娠のおかげを頂きますと、何と言うても、ちょっと時節ですね。十月十日と云う月が満ちなければ、子供が生まれて来ない様に、もう三カ月が四カ月、もう半年位で、さぁ生まれるごと、もう生まれるごとと云う様なもんです。あんまりやあやあ云うから、それが却って難産の元になったり、難産ででも生まれりゃまあ良いようなものだけれど、流産に終わって、肝心要の子宝に恵まれないと云った様な結果にすらなりかねない。
 これは全てのおかげの上に於いてもそうです。願った以上は絶対のもの、いわば五と五と足せば十になる、と云う様にです。神様は下さろうとして居る、こちらが頂きたいと思うて居る。頂きたい者と下さろうとする者とが相い合うのでございますから、おかげにならん筈がない。そこのところをです、私共が時節を待って信心の稽古をするのです。この様にも間違いのない神様、この様にも間違いのない神様と云うことはです、私共日々自分の周辺に感じ取らせて頂ける程しの信心の稽古をせないけません。
 ですから願うておる、この事だけを神様が聞いて下さらん筈はないと言う事。そりゃ皆さんも体験される事だと思うですね。もう本当に神様の間違いなさをですね、そこにもここにも感じ、その願って止まないおかげは成就しないけれども、その周辺にあれも神様のお働きであろう神様のこういう間違いない働きがあると実感しなければおられない働きが、その周辺に必ず起こって来るです、信心さして頂いて居ると。
 ですからその事が頂けんのは、まだ月満たないのだと悟らにゃいけません。只その間が信心の稽古である。いわば信心辛抱である。私共はお願いをする、そしてじだんだ踏む様に、やあやあ云う様に、その神様にご無理を申し上げる。そこにですそれが流産に終わってしまう。これ程信心するのにと云ったことになって来る。そこんところを待たせて頂く、物毎時節を待たず苦をする事と。
 物事にはすべて、おかげには全て、時節と云うのがある。チャンスと云ううのがある。そこでそのチャンスをピッタリとタイミング良く受け止めさせて頂けれる為にです、私どもは、日々、神様の働きの間違いなさに恐れ入って仕舞うと云う、恐れ入った生活をしておらなければいけんのです。これはまぁいろんな意味で、野口つぁんのお宅の場合でも、日々の信心生活の中に、まぁあそこまでおかげを受けられるまでには、随分と様々な問題があったけれども。
 その問題の全てがです、おかげになっている。だからこれ程に間違いのない働きを下さる神様であるから、近所に嫁入っておる泰子さんの上にもです、泰子の上にも、絶対おかげになるんだと云う確信が持てる。只時節を待たなければならん、と云うだけなんである。だから、もうあれのことは諦めましたと云うこともいけない。やはり親として、又は本人泰子さん自身としても祈りに祈り願いに願い、ほんとに久留米辺りから合楽までぐらい、信心は大体せにゃ、おかげ受けとります娘時代から。
 ですから、信心はさせて頂きたい、合楽にお参りしたいけれども、家の事情でお参り出来ない。だからと云うて、諦めることはいらん。いや諦めちゃならん。野口つぁんにしてみれば、これほど間違いのない働きを周辺に頂いて居るのであるから、泰子のことだけがおかげにならん筈はないと云う確信を持って時節を待つ。ほんとにお参りが出来んとを残念がられる、娘さんに対してでもです、時節を待たんの、ここが辛抱ばいと言えりゃ良いのだけれども。
 あんた家の親ばっかりは、条件に合わんと言った様な事を云いよったんではです、流産に近い。私共がねおかげの受けられる筈のおかげを、流産にしておる様な事がどれ位あるか分かりません実際は。只待てと仰るのじゃない、只辛抱しろと仰るのじゃない、その待たせて頂いて居る間に辛抱させて頂いてる間にもです、神様の働きの間違いなさと云うものをです、その事ではないけれども、その周辺に必ずはぁこんなに間違いのない神様だと感じなければ居られないおかげを見せて下さる所が素晴らしい。
 だからおかげになると確信を持って、神様に向かうて行かなければならない。その確信を持って信心生活が、いよいよ、いわば、良いおかげを下さる時に受け漏らさない様に、いわば水も漏らさぬ程しの実意丁寧神信心をなしとかなければならないと云うことであります。私共がどうもその辺の所が、せっかちになりがちです。せっかちになりますとおかげが、かえって互い違いになったり致します。
 そりゃまぁ例えて申しますと、商売人なら、集金なら集金に参りますね。お取次を頂きお願いをして、そして今日は、何処々に集金にやらせて頂きたいと思いますとこう言う。その事をお取次させて貰う。例えばねところが向こうへ行ったところが、先方が留守であったと、と云う様なことがあります。ところが向こうへ行ったら、丁度居られて、催促したけれども、集金に行ったけれども都合が悪くて、向こうに居られたけれども集金が出来なかったと云うこともあります。
 ところがお取次を頂いてお許しを頂いてやらせて頂きましたら、丁度まあ向こうの方も何か用があって、道の半ばまでぐらい用件で出て来てあった。こちらからもやらせて頂いたら、丁度その例えば、見えぬ道などがある所であるというならば、道の所で向こうの人とぴったり出逢った。実はお宅に集金に行きよる所でした。はあそりゃ丁度良かった、ここに持ち合わせがありますから、ほんならここでお払いしときましょうと、そういう素晴らしいね、タイミングの中におかげが頂けていけるのが信心ですよ。
 まぁ私の頂いておるおかげは、何時もそんなおかげだと自分では思います。なんと神様のお働きの素晴らしい事と。だから普通の人は、右の道を向こうに行かなきゃならん。しかも留守であったり、又は行ったけれども、向こうがちょうどお金の出した後で貰えなかったり。時節を待って、おかげを頂くと云うことは、そういうおかげが受けられるのです。向こうがわざわざ、持って来よんなさる訳じゃないけれども、途中でばったり道のりも半分で済んだ。
 しかも、ちょうど向こうにはお金の持ち合わせがあった。お宅迄行かんで、無駄足踏まんでよかった、おかげを頂いたと帰って来れる様なおかげ。物毎に時節を待たず苦をすること、心の上だけだけではない、形の上に於いてでも、いわば空足ばかりを踏まなければならぬと云う様な事ではない。おかげを頂けれる信心をしておかにゃいかん。そこで私は今日は、女の方の出産と云う様なことを例を取りましたけれどもね。
 十月十日と云うちゃんとその月満ちて安産のおかげの頂けれるという時期がある。そこで時節を待つというのは、只じっとして待つと云うのであってはいけません。妊産婦の人達に申します事は、もう出来るだけ動かにゃと云いますね。もう生まれるが生まれるまで一生懸命に働く。もうちんちろ舞いして働く。そういう人は必ず安産だと云われております。段々お腹が大きゅうなって参りますとやっぱり体が重うなる、きつうなる。
 だから寝たり転うだりしておる様な人は、いわゆる難産の傾向になります。もうこれは私どもの家内なんかは、もうほんとに産まれるもう、ちょっと時間前迄、一生懸命立ち働いてます。ですからもうそれこそ、ほんとに隣知らずの安産のおかげを頂きます。ですから、おかげをね、おかげからおかげまでを待たせて頂くと云う間がです、一生懸命に働かにゃいけんと云う事です。
 働くと言う事はです、勿論端を楽させる事。又は神様のお喜び頂ける御用に一生懸命打ち込むこと。只じだんだ踏んでその事だけをどうぞどうぞと願うのではない。それがよくよく自分の周辺を見ると、そう言わんでも済む是は神様は絶対おかげを下さると確信が出来る程しに、その周辺に神様の間違いなさを表して下さると言う事。そこでそのおかげを流産にしない信心と言う事をです、心掛けさせて頂かなければならん。
 時節を待ってのおかげと云うものは、もうほんとにそれは鮮やかなものです。時節を待たずにおかげを急ぐと言う事は、それはスムーズさを欠きます、おかげになりましても。どうしても時節を待たせて頂けれる信心。だから時節を待っておる間に有難い、又は楽しいと云うものを身につけておかなければいけんのです。でないとどうしてもおかげ急ぎを致します。おかげは願ったが最後、絶対なものとして、いわゆるその時期の来るのを有難く楽しゅう待たせて頂く。
 よく言われる事ですけれども、自分の思う様にならなかったり、却って困った結果になったりする時に、神様の御都合ですよと云われます。だから私共はそういう場合に神様の御都合に違いはないと頂けれる信心。お願いをして都合が悪かったり、お取次を頂いたら先生がそりゃ神様の御都合ですよと、何ちゃ自分が思うごとならんとは、神様の御都合で片付けられて、こっちが叶わんと云った様な時代が私共はありました。
 けれども正しく、神様の御都合でした、何時の場合でも。けれどもそれが無信心の間は、神様の御都合と云うことが分からない。それを今日私はね、神様の御都合と言う事をです、ほんとに実感が出来れる信心はどう言う事かと云うと、この様な間違いのない神様の働きと云うものを、日々の中に頂いて行っておるから、この事が自分の思う様にならないからと云うて神様の働きを頂いておらんのじゃぁない。
 神様がおかげを下さらんのじゃぁない、これは神様の御都合に違いはないと確信が出来れる信心を頂けとこう云うのであります。この事だけは神様がもうごりっとん動いては下さらない。この事だけは神様が大体おかげを下さるだろうと、まあ云うならば難しかろうごとみえる時にです、神様の御都合として頂けれる信心心が楽です。いやそこから信心、これはまだ信心が足りんからだという信心の弾みが出て参ります。
 只神様の御都合だと云われて、御都合と丸飲みにそれを頂くことは大変難しいのですけれども。この事だけには、この様に間違いのなくおかげを下さるのであるからと云うところから、例えばほんなら野口つぁんのところの例を申しましたが、熊本小倉又は壱岐辺りからまでも、自分所のお祭りに、皆んなが、家族中親子でお参りをして来るのに、すぐ足元に居るところの娘だけがお参りが出来ん。
 どうしてこの親は分からんのだろうかと云うのではない、こりゃこれ程、間違いのない働きを頂いて居るのであるから、この子だけの上にはまだ他に神様の御神意があるに違いはないと諦めず、悪く言わずそれを私は、待たせて頂くと云うことが時節を待つと云うことだとこう思う。だからそこには、これは神様の御都合に違いがなかばい泰子さんと、お母さんが泰子さんに云えれる信心。
 これほどお母さん達があんたの事をお願いしよるんだから、必ず金光様の御信心が一家中で出来る日が必ず来るだろうけれども、そのまあだ、いわば月が満ちてないのだ、時節が来てないのだ。その間を修行期間と思うて辛抱せにゃと云うことになる。昨日も申しましたけれども、野口つぁんの所の謝恩祭ち言うたら、必ず雨が降ったり風が吹いたり、もう何時か段、雪が降った事すらもありましたね。
 だから、これが素晴らしいと私は言うて話しました。間違いがない、野口つぁんのところに行くとにゃ、必ず傘は忘れんごとと云うくらいにですね、間違いなく降る。そういう間違いが、これは良しにつけ悪しにつけ、その様に間違いの無い働きを受けて居ると云うことが。そういう中に、この事だけは自分の思い通りにならないと云うのですから、どうしてじゃろかじゃなくて、この様に間違いのない働きにあるのであるから、神様の御都合に違いはないと思わせて頂くところに、時節は間違いなく、その時節に近づかせて頂くおかげを受けられて居る時である。
 ところがそこのところを、どうしてと云う事になって来る時にです。そのおかげが互い違いになったり、いわば流産に終わったりする結果にしかならんのです。このへんのところの一つのこつ合と云うものをね、体得しますと有難い。それには、神様の間違いの無い働きを日々の中に、はっきり見せて頂く、感じさせて頂ける信心、そこに実意丁寧神信心が求められる訳であります。
 「物毎に時節を待たず苦をすること」物事に時節を待たずに苦労をして居る。いわゆる繰り返し繰り返し、ようやくおかげの、云うならば種が宿るのですけれども、それを片っ端から流産に終わらせてしもうておる。神様もいい加減のもんばいと云う様なことに、いわゆる不信の信心になってしまう。神様を信じられないことになってしまう。私が、ここから皆さんを見せて頂いておってですね。
 そこんところを見事に受けて行く人とですね、もうこの人ばっかりはもう十の内九つまで出来るのに、もう簡単に流産になって行くと云う人がありますね。それはいよいよのところで受け漏らして居る。だからほんとに何と云うかね、もうとにかくおかげを頂き抜くまで、やはり実意を欠いてはならん、諦めてはならない。又は神様に、どうしてじゃろと云う様な御無礼な思い方をしてはならない。
 もうちょっと、もうすぐそこに手が届く程しのおかげのところになって居るのに、神様がおかげを下さらない、いわばお試しやらを受けますと、それで信心をガタッと落として仕舞ってですね、又初めからやり直すと云った様な人も随分あります。どうぞ一つ、そういういわば難しいところを通る時程です、云うならば、もう出産の日が間近だと思わせて頂いて、おかげを頂いていかなきゃならない時だと思いますね。
   どうぞ。